10月21日 (月)   追悼・板井美樹さん


板井美樹さん(家庭科選修4年生:望月ゼミ)におかれましては、平成25年10月8日午前、突然の病により、急逝されました

ご葬儀は10月13日15:00より、プリエールさいき(佐伯市)にて、しめやかに執り行われました。
留学中の突然の出来事であり、美樹さんはさぞかし無念であったことと思います。
また、ご両親のお悲しみを思うと言葉が見つかりません。
美樹さん、やすらかにお眠りください。

美樹さんの突然の訃報に接してほぼ2週間が経った。
この2週間、なかなか気持ちの整理がつかなかったが、ようやく落ち着いてきたので、状況について記しておこうと思う。

10月8日、16:30から大学本部で会議を行い、17:30頃、そろそろ今日は終わりにしようかというところで、総務部長が慌てて1枚のメモをもってきた。
その内容は嶺南大学に留学中の学生が急逝したとの内容であった。
嶺南大学と言えば、確か板井さんが留学している大学であったはずだが、この時点ではまさかこれが板井さんとは思わず、学生支援部などに情報を集めに行ったら、どうやら板井さんのようであることがわかった。

そのあと、多くの人が集まってどのように対応しようかという話し合いが始まって、まずは情報収集。
限られた情報の中でどのように対応するか、厳しくしかし迅速な判断を求められる事態になった。
ひとつの方向性が見えたところで、一刻も早くご両親にお目にかかろうということになって、原田社会連携部長、小林国際交流課長、それに私の3人で佐伯の板井さんのご実家に伺うことになった。
大学を19:30頃出発した。

10月22日 (火)   追悼・板井美樹さん

美樹さんが亡くなったとの知らせを受けて、私は美樹さんのご両親とご一緒に韓国に行くことになった。
どういう状況であったのか、美樹さんがどのような留学生活を送っていたかについて、現地で話を聞き、この目で見てきた。
そのことをここに詳しく書いて、跡に残そうと思って書き始めたが、書こうとするとそのときそのときのことが思い出され、つらくて悲しくてたまらない。
なので結局詳しくお話することはできそうにない。
かろうじて書けるとことのみ続けていくことにする。

9日の夜、飛行機で嶺南大学に行くことになった。
朝、ご両親をご自宅に迎えに行き、出国に必要な書類を整えて、昼頃研究室にやってきた。
ご両親が美樹さんが勉強していたゼミをご覧になりたいというご希望であった。
美樹さんは日頃からおうちでご両親にゼミでの実験の様子を話していたことを想像することができる。
その話をご両親が楽しそうに聞いておられた様子が目に浮かぶ。

少し早めに福岡空港について、釜山に渡ったところで、日本総領事館の領事が迎えに来てくださり、その夜は病院に行き、警察に行って状況の説明を受け、それから大学で美樹さんが暮らしていた寮に出向き、暮らしていた部屋に伺った。
病院でのこと、警察での説明、寮の様子・・・このあたりは思い出すだけでつらく悲しく、文章にすることができない。

ただ、警察で受けた説明ではっきり話しておかなければならないことは、「事件、事故の可能性は全くなく、病気による突然の逝去であることがほぼ間違いない」ということである。
しかし、死因を可能な限り100%に近い数字で解明することが必要であり、そのことに対して検事から命令が出ていて、これに従わざるを得なかったことが、ご両親にとってつらい決断であったと思う。
しかしその命令によって、翌日、美樹さんを死に至らしめた理由がほぼ特定できた。

10月23日 (水)   追悼・板井美樹さん

10月9日は宿舎に着いたのが26時であった。
長く重たい一日であった。シャワーを浴びてもなかなか寝付くことができず、ほとんど睡眠をとることができないままに10日の朝を迎えた。

10時15分に宿舎を出て、一度釜山に行き、美樹さんの検死が行われた。
お昼前には死因がほぼ明確になった。
突然起こるそれも直ちに命取りになる病気であった。
若い人に起こることは極めて稀なので、前兆があったと推測されるし、前兆と思われる状況もあとから考えたらあったのであるが、私のように歳を重ねた者だったら、その前兆が極めて危険な状態であることを知っているし、もし自分がそうなったら直ちに対応することができたであろうと思う。
しかし、美樹さんのように若い人であれば、ちょっとおかしいくらいで納得してしまうだろうし、周りの若い人たちも、まさかそんな重篤な病気の前触れであるとは思ってもみなかったであろう。

午後からは美樹さんと一緒に日本に帰るため、美樹さんをエンバーミングする作業について打ち合わせ、その後美樹さんが運ばれた病院に出向いた。
そして、昨日の警察に出向き、ご両親が美樹さんの日頃の様子などを説明して、それが終わってから寮に出向いた。
寮では美樹さんの仲間の留学生が迎えてくれて、みんな悲しみに暮れていた。
短い間であったのに、これだけの人たちが悲しんでくれたということは、美樹さんが嶺南大学で充実した毎日をすごしていただろうことを思った。
美樹さんの部屋に行き、日本に送る荷物をまとめる作業のお手伝いをした。
留学のために日本からもってきた荷物はほとんど手がつけられておらず、現地で購入したと思われるものもほとんどなかった。
これから勉強しようという気持ちで希望に満ちた毎日をすごしていたであろう美樹さんのことを思うと無念でならない。

ご両親も私たちも、一刻も早く美樹さんと一緒に日本に帰りたかったが、領事と同行した小林課長が手際よく段取りを進めてくださったおかげで、明日11日に帰国できることになった。
この日10日は、私たち大学関係者は直接検死などの打ち合わせに関わることはなかったが、いろいろなところで対応されていたご両親が相当お疲れの様子を見て、改めてやりきれなく、せめてご両親のお気持ちをわずかな時間でも軽くしてあげられることはないものかと考えることしかできなかった。

10月24日 (木)   追悼・板井美樹さん

10日はとても慌ただしかった。
しかしながら、美樹さんの帰国の準備が整ったので、この夜は少しだけ宿舎でホッと一息ついた。
11日は10時に宿舎を出発して、釜山の総領事館に出向いた。
美樹さんの帰国の最後の手続を終えて、14時40分に金海空港に着いた。
美樹さんはすでに到着していた。
しかしそれは乗客の搭乗ターミナルではなく、貨物ターミナルであった。
ほどなくして、総領事がお越しになってご挨拶をしたあと、美樹さんを飛行機に乗せるお手伝いをした。
本当に悲しく、こんな経験は2度としたくない。

18時の飛行機に乗って18時40分に福岡に着いた。
美樹さんとご両親、それに部長・課長・私の6人で帰国した。
美樹さんは特別の部屋に乗った。
みんなが同じ飛行機で帰ることができたのがせめてもの救いであった。

福岡に着いた後、美樹さんは空港でお化粧を直さなければならないので、私たち5人は先にご自宅に戻ることにした。
途中、サービスエリアで軽く食事をした。
そのとき、美樹さんが留学するために必要な書類をご両親とともに福岡に取りに行き、その帰りにここで食事を取ったというお話を伺って、それがほんの2ヶ月前のことと聞いて、なんともいえない気持ちになった。

ご実家に到着したのは23時30分。
美樹さんはもう少し経ってから帰ってくるとのことであった。

10月25日 (金)   追悼・板井美樹さん

お通夜は翌12日、ご葬儀は13日と決まった。
お通夜には、同級生がたくさん集まってくれた。卒業生の顔もあった。
大半の顔がこの現実が信じられないという顔であった。
私はお通夜とご葬儀の両方に参列させていただいた。

悲しいんだか、寂しいんだか、むなしいんだか、何が何だかわけがわからない時間を過ごした。
ご葬儀で美樹さんのお顔を最後に拝見したときも、何がどうしてこうなっているのかわからなかった。

お通夜、ご葬儀で、お父様がご挨拶をされた。
美樹さんの「美樹」と名付けたこと、子どもの頃から今日の大学生までの頃のことを話してくださった。
愛娘を突然失った悲しみは想像すらできない。

私は美樹さんの棺がおおわれるときに、最後にお父様が美樹さんにかけたことばが忘れられない。
そのことばを思い出すたびに悲しみがこみ上げてくる・・・。